東アジアの平和博物館と文化的記憶:台湾の記念博物館に於ける日台の文化的記憶

曹欽栄

摘要

東アジア平和博物館の相互交流を通じて相互間の人々の歴史認識を強化するのは、各国平和博物館が国際的対話を増進する機会である。本稿は台湾緑島の白色テロ(1949-1987)記念博物館の展示物、及び高雄市戦争と平和記念公園のテーマ館を通し、日台間の文化的記憶現象を探求しようと試みたものである。日本が台湾を殖民統治した時代(1895-1945)に成長した世代は、第2次世界大戦の前後に跨り、当代の平和意識と過去の文化的記憶とが、記念館の場を借りて深刻な対話を生み出している。

キーワード:記念博物館、文化的記憶、平和意識、ポストコロニアリズム、アイデンティティ、記念化

1.前書き

台湾は1980年代中葉に市民運動や政治運動の風潮が盛んになり、その後の民主化の道を切開いた。民主化の過程で、戦後1947年の228事件及び白色テロの歴史記憶が、戦後歴史的事件を記念化する発端となった。台湾では台北228記念館(1997)、緑島人権文化園区(2001、台東)、二二八国家記念館(2007.02.28、台北)、景美人権文化園区(2007.12.10、台北)等が既に設置されてある。台湾の政府当局は、更に2011年12月10日の世界人権デーに、2ヶ所の政治犯刑務所の遺跡である緑島及び景美人権園区を合併して国家人権博物館を創設する予定である。

国際社会に於いては、「平和」、「人権」のコンセプトを博物館運営の核心とする機構が3つ存在している。即ち、平和のための博物館国際ネットワーク(International Network of Museums for Peace、INMP)、良心のサイトの国際連合(International Coalition of Sites of Conscience、ICSC)、公共に対する犯罪犠牲者追憶のための記念博物館国際委員会(International Committee of Memorial Museums in Remembrance of the Victims of Public Crimes、ICMEMO)の三者である。その中で、諸国のいろんなタイプの記念館は、「最近の過去」である近、現代歴史事件を記念することを中心にしている。各国の記念館が国際交流を行うに際しては、互いに「平和」、「人権」のコンセプトを交差点及びコンセンサスとして、教育の目的を達成しようとしている。

日本で記念館の多くは、第2次世界大戦を主題とした「平和祈念資料館」が主体となっている。台湾では戦後の228事件及び白色テロ記念館が設立されたものの、2次大戦を記念する場は幾重もの曲折を免れられなかった。台湾は戦後、日本の植民地統治から脱却できたものの、一個の独立国として「脱植民地化」の社会的作業工程を進めたのではなく、果ては、戦後の台湾は「再植民地化」の状態を経験したとする論者さえも現れている。そして民主化の過程で、台湾住民を主体とする論述がだんだん主流を形成するに至っている。然しながら、「第二次世界大戦」、「二二八事件」、「白色テロ」を記念する記念館の戦後に関するナラティブは、2011年台北228記念館の常設展示のリニューアルを例にとれば、なおも台湾住民が戦後に「日本人」から「中国人」、「台湾人」に変身した主観的または客観的アイデンティティの変遷との「競り合い」が観察できる。特に2011年を通して台湾で催された一連の「中華民国建国100年を祝う」行事は、国族主義の論述のもう一つの実例だと見ることができる。

本稿は「かつて日本人であった」白色テロ被害者の個別事例を例に取り、それぞれの被害者の文化的記憶を考察しようとするものである。例えば、①世俗で常に「日本精神の所有者」と目されている日本語世代、②矢内原忠雄の著作の影響等である。この2つの事例の主人公である2人の白色テロ被害者、許昭栄(1928-2008)、涂南山(1926-)の両氏は、日本帝国の植民地支配の下で教育を受け、それぞれ異なる身分で第二次世界大戦を経験した。植民地時代の教育によって養成された人生観や世界観は、戦後60年を経た後でもなお殖民地主義の遺産(colonial legacy)として彼等2人の文化的記憶にインパクトを与え続けている。文化的記憶は記念館展示物の物語(narrative)を構成する重要な部分であり、これ等の物語が来館者の記念館内で歴史記憶を理解する対話の基礎を構成するもので、それは記念館と来館者のコミュニケーションの鍵となるものでもある。

2.文化的記憶と記念館

台湾の諸記念館の戦後の歴史のナラティブは、記念されるべき行動者への評価、及び人権侵害を犯した実権掌握者への責任を追及してこそ、当生の参観者に歴史的教訓の真実の内容と民主化誕生時の人民のモメンタムを伝え、民主の確保、人権の重視、平和意識への関心等の記念館の目的を達成することができる。それ故、日本帝国及び中華民国の既往の統治の影響が歴史上の人権問題を引起こしたことに対し建設的な批判を加えるのは、未来の台湾の「国家人権博物館」の研究課題として、また展示内容として欠くべからざるものであろう。戦後の台湾に於ける「ポストコロニアル」の議論は、今後も更なる論弁が俟たれる膨大なイシューであり、本稿で解説するだけの余裕は無い。それでも、現代の記念館の展示の構造と叙述、及び記念館がどの様に記念の対象の文化的記憶を解釈するかを問う際には、ポストコロニアル批評とアイデンティティのイシューはどうしても避けられない問題なのである。Leo CHINGがいみじくも指摘したように、既往に於いて台湾と帝国主義日本及び民族主義中国とは三角関係のアイデンティティ状態を構成していた。彼は、「この様なアイデンティティの位置は、彼等の断絶と解体の痕跡の中で、戦後の日本、中国大陸及びポストコロニアル台湾の文化と政治を絶えず表象しまた再表象し続けた」(CHING2006:30)と指摘している。台湾の足元の内外環境は上述した三角関係の時代とは明らかに異なっており、行動者のアイデンティティの位置付けも持続的な変遷の中で台湾の文化と政治に影響を及ぼしている。アイデンティティの位置の移動は、今日の記念館と参観者との間でのコミュニケーションの様相に反映されるべきであり、これこそが本稿が限りある紙幅で探求を試みようとする課題でもある。即ち記念館と関わりのある2つの事件と物件により、台湾の記念館が直面している植民地遺産が個別の行動者の文化的記憶に於ける多重の課題を分析し、解明しようとするものである。

2.1文化的記憶

記念館はフランスの歴史学者Pierre Noraが『記憶の場』(lieux de mémoire)として提起した当代文化機構の一つであり、主動的に同時代の観衆とコミュニケートする社会的、文化的機能を有しており、物質的または非物質的有意義な実体を集め、コミュニティーの記念地遺産の象徴の場を形成する(Whitehead, 2009)。国際社会に於いては、1980年代後期以来、記憶の研究が豊富な成果を上げた。フランスの社会学者Maurice Halbwachが提唱した集合的記憶(1925)の研究を基礎に、ドイツでは『文化的記憶』が文化の研究や人類学領域の研究の方向性の上で、文化を3つの側面を有した構造として捉え、社会(人、社会関係、機構)、物質(文物及び媒介)、精神(思想、精神的文化性の定義方式)が組み合わさったものとの観点が示された。その為、『文化的記憶』とは大きな傘の性質を具備した語彙として見られ、その傘の中では『社会的記憶』(記憶の研究の起点は社会科学)、『物質的または媒介的記憶』(興味の焦点は文学及び媒介の研究)、及び『精神的または認知の記憶』(専門領域は心理学及び精神科学)が包含されていた。上記3側面が総て『文化的記憶』という言葉の中に包含され、一部学者は物質及び社会現象の相互作用(例えば、記念地及び記憶の政治)を研究、その他一部は物質と精神現象の交互作用(例えば、精神の歴史的研究)、別の一部は認知と社会現象の関係から着手する(Erll,2010:4)という風であった。

記念館としては、歴史の研究を進めるだけでなく、来館者との応答や、情報伝達のアングルからの思考、記念の対象者の『社会記憶』、『物質または媒介記憶』、『精神或いは認知記憶』の研究もしなければならず、記念館が歴史的意義または文化的記憶の政策を進める上で、重要な参考価値を有したもう一つの道を提供したと言えよう。特に移行期の正義と関わりのある記念館に就いては、歴史物語が尚も沈殿のための時間を必要としている場合に、被害者当事者とその関係人、或いは目撃者や証言者等の文化的記憶が、記念館内で活き活きとした証言の物語となる。記念館内に於ける記憶の研究成果は観衆の日常生活での文化的実践の参照の枠組みとして機能できる。観衆が記念館内で見たり感じたりした他者の文化的記憶は、教科書の上の限りある叙述とは大きな違いがある。この際記憶を強調するのは、「過去の歴史をいかに再現するか」の問題ではなく、記憶が何故団体によって受け入れられ或いは忘れられ、拒まれるのか、記憶が如何にして行為と思想とを形成するのかが探求される。それぞれの団体に取って、どういう風に過去の歴史のイメージを選択し設置するのか、更にそれぞれの社会がどの様に過去を選択し表現するのかが問われている。記念館が文化的記憶の中から選択した歴史的イメージの解釈には、その発言権のアイデンティティの基礎が含まれており、それが観衆を主体とした認識や理解のアイデンティティの基礎と対話を行うのである。

2.2主体、再記憶

上述した論議に基き、筆者の仮説は、人々の情緒に感動を与え、人々の行動を促す理由があって始めてこの様な行動の過程が一個のダイナミックな社会-文化の行動様式に転換する。人々が何故この様な過去の印象に傾斜し、その他の印象に傾かないのか?この様な問題に対する答えは、我々を一つの仮説、又は何らかの歴史的メンタリティーの結論に導き、研究者が記憶に就いて考える時精神の歴史に連結することとなる。『記憶』の研究がイデオロギーや国家及び公共の領域を超越し、記憶をして人々の体内に沁み込み、内在化した行動方式を形成し、過去の印象を変化させる。権力によって制約されない記憶の品質は、『記憶』を博物館内に安置できるだけでなく、更に記憶を人々がこの世界でどの様に、また何故に行動するのかの方式の一部と化する(Confino 2010:80-81)。この様な視点から見れば、記念館の物語の位置と観衆が見る自分の位置とは、多元的対話と互いに主体となる環境の中にあり、記念館は記憶を安置し、保存するに止まらず、記憶が産出した対話によって、人々の行動に影響を与えるのだが、これは記念館に特有の過去と現在の多元的対話の文化的、政治的現象だと言える。

ポストコロニアリズムの著者Robert Youngが、「ポストコロニアル批判は多様な文化のぶつかり合いの産物だ」(Young 2001: 10)と指摘した様に、記念館はポストコロニアル批判の文化的実践を体現したものだといえる。Youngは更に、ポストコロニアル批判は一種の行動主義の書写形式であり、一方で反植民地解放運動の政治的作為の回顧であると同時に、その中から啓発され、「歴史の客体である人間が、歴史の新たな主体に変身する」(Young 2001:11)と述べている。彼が更に言うには、「ポストコロニアルは歴史及び当代文化の理論的ナラティブを結合した。歴史の中の行動の側面はポストコロニアル論述が最も関心を抱いている部分であり、それは記憶と再記憶の歴史的行為を包含し、独立運動の完全な側面及び反植民地政治行動の中での匿名の参加者を保存するものである」(Young 2001:61)。台湾のポストコロニアル現象は現在尚も持続しており、2011年に台湾政府が中華民国100年を祝う一連のイベントは、台湾の20世紀に於ける変遷と対照して見た場合、それらのイベントが再発明された国族の記憶とも言うべきものであり、自分自身白色テロを経験した台湾人民にとっては、彼等が戦後中国大陸から来た者であるかどうかに拘わらず、白色テロ時代の匿名の参加者の記憶と再記憶とは尚も高度な競合の過程にある。この様に見た場合、台湾の記念館の記憶と再記憶行動は、「独立運動の完全な側面を保存する」論議と関わりを持ち、記念館が今なお文化と政治の特殊な競争状態にある境遇を突出させ、記念館が平和の意識と歴史記憶を伝達し、語ることに断絶、反対、連続等の各種の状態が生じ、更なる多面的な論議が必要になる。

3.記念館の文化的記憶のナラティブ

日本帝国が台湾を植民地統治していた時代の「未だに抹消できない痕跡」(CHING 2006:21)は、物質的または非物質的な痕跡を問わず、植民者が去った後でも、被植民者は第二次世界大戦の戦後処理問題の上で、台湾が日本人から中国人に変わったアイデンティティの多重の難題の一つは、「日本精神」を備えていると言われた世代の境遇であり、「日本精神」とは何なのかが問われている。台湾人は戦後「敵対し戦いに敗れた日本兵」であり、中国語が話せず、植民地時代に日本の「愚民化」教育を受けた者と蔑まれた。前述の1920-1930の間に生を享けた台湾人は、1945年に戦争が終わった時には15歳から25歳で、その多くが植民地時代の中等以上の教育を受けていて、戦後は「中国語を話せない」ことから急いで色んな機会を利用して「読書会」に参加し、「祖国」の言葉を覚えようとしたのだが、その「読書会」がその後白色テロで罪名の一つとなった。彼等は現在では80-90の高齢に届いており、台湾で白色テロが猛威を振るった1950年代初頭の主な当事者であり、証言者でもある。彼等による歴史の口述や、文化的記憶のナラティブが集大成され、今日の記念館の主要な物語となっている。記念館の一般の包括的な物語や展示物は、一種の選択された歴史の映像であり、記念館は更に多くの個別的事件や文物に対するより突っ込んだ認識と研究があって始めて参観者に文化的記憶の多面な豊富性を理解させることができる。

3.1許昭栄の4つの「祖国」

本稿の最初のケースは許昭栄焼身自殺事件で、許氏は南台湾の町、屏東の貧しい家に生まれ、1943年に日本海軍に入隊、戦後1947年に228事件が勃発した際は、政府から危険分子として見られるのを免れるため国民党政権の海軍に入り、中国の青島で訓練を受けた後、1948年に米国から軍艦を接収するチームに加わりアメリカに派遣された。1949年8月山東省長山群島作戦に参加し、幸い無事に台湾に帰還した。1955年に再度アメリカに派遣され米艦の引継ぎを行った際、帰路ハワイで当時日本を拠点にした台湾共和国臨時政府が出版した英語と日本語の書籍《台湾独立運動10周年》を購入し持帰り、そのかどで1958年4月に同案件の9人と一緒に逮捕された。これが1950年代後期に発生した海軍台独政治案件である。許昭栄は緑島と泰源監獄に10年監禁され、出獄した後も体制側の厳しい監視下に置かれた。1984年にビジネス上の理由で日本を経て米国に渡り、ロサンゼルスで台湾の政治犯を支援する抗議デモに参加し、そのかどで台湾政府から帰国ビザをキャンセルされ、カナダに赴き、1987年にカナダ政府から政治亡命を認められた。1989年以降中国に渡り、第二次大戦後に中国で国共内戦を戦った戦友やその他台湾籍兵士の行方を捜し求め、中国に長期滞在して中国大陸残留の台湾兵を捜索する長い旅に就いたのであった。

3.1.1高雄市 戦争と平和記念公園

台湾政府が1991年に始めて海外ブラックリストを解禁したので、許昭栄は晴れて台湾に帰国し、「元国民党軍台湾老兵及び遺族」の為に奔走や請願を続け、1995年に「全国元国民党軍台湾老兵及び遺族協会」を設立した。また持続的に台湾初の戦争と平和記念公園を開設するために奔走、その間多くの曲折を経、高雄市議会は一度は同公園を823(金門島)砲撃戦記念公園の名称にすり替えようと図り、その意図が成らなかった後でも、同公園名称から「戦争」の2字を削るよう要求した。許昭栄は「戦争と平和記念公園」の前途を憂い、2008年5月20日夕、名称が遅々として決まらない公園予定地の側で焼身自殺を決行した。かつて白色テロで台湾に恐怖政治を施行した中国国民党は同日政権の座を奪還し、総統就任の晩餐会が同夜高雄市で盛大に開催された。翌日台湾の新聞は挙って社会面(第3面)に許昭栄焼身自殺のニュースを報じた。許氏の行動は海外各地に漂浪し、故郷に戻る術もない台湾兵の魂魄の最も深層の抗議を表現したものであろうか。その後高雄市政府と議会が協議して「戦争と平和記念公園」の名称を維持することに合意し、2009年5月20日には公園内に「台湾歴代戦没将兵英霊記念碑」及び主題館が建立され、許昭栄記念碑も同日落成した。

現在同公園内には許昭栄と同士達がそれぞれ異なる時期に建立した(国共内戦で亡くなった元日本軍、元中国軍)の「台湾無名戦士記念碑」(2004年11月10日建立)、「二次大戦捕虜送還船記念碑」(2006年1月26日建立)等の記念碑が立ち並んでいる。公園入口の「戦争と平和記念公園」の石碑は、日台国民文化交流会及び台湾籍老兵及び遺族協会が寄付し建立したものである。許氏の事蹟はある一世代の歴史が当代の文化的記憶と断絶した関係を示しており、この様な断絶関係は、戦争と228事件、白色テロの被害等を身を以って体験した同一世代に反映されている。第二次大戦後の台湾人は、前後して日本帝国、中国国民党、中国共産党等の兵卒として戦い、更に長期に渡った戒厳令下で、真実の戦争記憶は台湾では語られることなく、自分のアイデンティティさえをも見失う破目に陥ったのである。

3.1.2「台湾魂」、「日本精神」

許昭栄が生前妻子と義母に書き送った決別の書には、主体的なアイデンティティ意識の思弁が連ねられていた。

 「この度と言わず、今日私が自決を図った主要な原因は、決して誰かにそそのかれたのではなく、また愛情や金銭、或いは何かの恨みで生きていけなくなったからでもありません。総ては私一人の人生観に基く理性的な選択であります。即ち、私は一死を以って台湾国の独立戦争及び平和記念公園の誕生を促そうと思うのです。

....

 思えば皮肉なものです。私は人間として生まれながら、どうしてか4つの『祖国』を与えられ、その国民として兵役に服し、納税の義務を果たさねばならない身になりました。即ち、日本国民の義務、中華民国国民の義務、生まれながらの祖国台湾人の義務などです。カナダに至っては、私は権利だけを享受し、兵役や納税の義務を果たすことはありませんでした。以上4つの祖国を持つ身でありながらも、惜しむらくは、カナダの身分証とパスポートだけを胸の上に置き、台湾魂と化し、公明正大に閻魔王の前に行き台湾の無情なることを報告しようと思うのです。」(薛宏甫2009: 384

許昭栄は4つの「祖国」を持つ人生は、自我の意識の中で消すことのできない生命の実感とジレンマとを代表するものとして認識した。彼は、「総ては私一人の人生観に基く理性的な選択である」ことを堅く信じ、その言葉を彼が台湾に帰ってきて以来17年(1991-2008)の奮闘に照らし合わせれば、彼の理性的選択は「公明正大」な生活信仰に基いたものであることが理解出来る。だがこの様な生活信仰と行動とは、台湾の社会に理解されず、彼は「死を以って台湾国独立戦争及び平和記念公園の誕生を促す」他なかったのである。高雄旗津にある戦争と平和記念公園を訪れる人々は、こんなにまでして公園の誕生を促した先輩の命の意義をどう理解すればよいのであろうか?彼は果たして日本語世代と称されている台湾人の「日本精神」を代表しているのであろうか?許昭栄はその著書の中で、中国に残留した2人の台湾兵士の境遇を書いた際、日本精神に触れている:

 「中国で文化革命(1966-1976)の嵐が吹荒れた間、中国大陸に残留していた『元日本軍、元国民党政府軍』の台湾籍老兵達は、殆んどが紅衛兵の闘争の標的にされた。特に陳力芬氏のように「日本精神」を持っていた台湾人は、最も残酷で悲惨な境遇に陥り、皆中国の辺境や最も辺鄙な土地に追い遣られた。」(許昭栄2006:108)

 「もう一度重複して言えば、特別に陳力芬、羅登輝の2人の様に日本教育を受け、かつて日本軍の兵士や軍属を経験し、日本精神から未だに脱却できていなかった人たちは、紅衛兵から敵視され、最も悲惨な仕打ちを受けた。彼等の悲痛な境遇はいくら同情しても仕切れないものであった。」(許昭栄2006:118)

1998年6月、正に米国のクリントン大統領が中国を訪問していた頃、許氏は高雄市立文化センターの「台湾防衛・併呑反対」のハンガーストライキの会場で、悲憤慷慨し台湾老兵の境遇を訴えていた:「炎炎烈日の下にあって、我台湾老兵は最後の力を振り絞り、『台湾魂』と『日本精神』で以って、苦肉の計で戦いを挑んだのであった。」(許昭栄2006:147-148)

この様に、死を覚悟して出陣するような心情で仲間達の抗議デモの実態を訴えるのを聞けば、私達は許昭栄が一個の独立した主体的人間として、正に彼の義母榎原美子が言うように、「あの人は台湾人でありながら、精神的には日本人の様に感じられ、誰に対してもとっても良い人でした」との言葉が理解できる。(薛宏甫2009: 375)許昭栄は「日本精神」という言葉で同世代の陳力芬、羅登輝及びその他仲間の悲惨な境遇を括り、この様な精神が命が勇敢に逆境に立ち向かうことを表していると理解し、一方義母の側は婿の死を惜しむ気持ちを、婿は精神的に日本人であったと述懐している。台湾出身でありながら日本に長期滞在している周振英は、「許さんは強烈な無私奉公の日本精神を持ち、大変正直な人である」と振り返り、また「許さんは日本精神を具備し、時間と信用を守り、正義を追求するなど、人間としての基本原則を総て備え持った人」とも賞賛している(薛宏甫2009: 413)日本精神という言葉で日本植民地統治時代の台湾人精神を形容するのは、台湾のポストコロニアルの過程で、「歴史の客体」としての台湾人の他称または自称が、許昭栄の「主体的」生命の表述に回帰する時、私たちはその直接の含意が、世上に存在する自主的で自由な台湾人は、正義と公平を追い求め奮闘すべきであり、許氏はこれこそが戦前戦後の種々異なる身分の台湾兵士が、運命に翻弄される人生を送りながらも最後まで奮起闘争する「台湾魂」であると認識しているのである。台湾のコロニアル・レガシーを被植民者が身を以って体現したのは、正に脱殖民の多数の個別的「新主体」のモメンタムの一つであった。所謂「日本精神」も、被植民者の文化的記憶の中の精神的側面から探求されるべきであり、そこから「主体的」自我意識が見付け出せるのではなかろうか。

3.2涂南山が《イエス伝》を翻訳

次に紹介したいのは、緑島人権園区のもう一つの展示物、《イエス伝》の範例である。白色テロの受難者涂南山が、緑島に囚われの身として懲役に服していた期間に矢内原忠雄の著作《イエス伝》を中国語に翻訳したことを、来館者はどう理解するのであろうか。

3.2.1矢内原忠雄の《イエス伝》

台湾では2011年に矢内原忠雄に関連する著作が2冊翻訳出版された。一つは《矢内原忠雄伝》(矢内原伊作著、李明峻訳)で、もう一つは、《矢内原忠雄及びその《帝国主義下の台湾》》(何義麟著)である。後者の著者である何義麟は、《帝国主義下の台湾》は、日本帝国植民地台湾を知る古典的読み物であるのみならず、矢内原忠雄と台湾との関係を理解する上でも貴重な本であるのだが、大変意外だったのが、矢内原の《イエス伝》が涂南山の命を救ったということだと指摘している。涂南山は緑島[1]新生訓導処と呼ばれた労働改造キャンプで、山上の畑で労働に従事している傍ら、矢内原忠雄の著作《イエス伝》を翻訳した。時には夜中に仲間の不寝番の役を引き受け、睡眠を犠牲にしてまで時間を惜しんで、暗いガス燈の下で《イエス伝》の真意をあれこれ斟酌しながら翻訳した。涂南山は取材に応じた際、緑島に囚われていた9年近くの間、一心不乱に《イエス伝》を翻訳したのだが、この9年の歳月が自分の人生では天国見たいなものだったと述懐している。そうは言うものの、来館者が新生訓導処展示エリアでこの本の翻訳の原稿を目にする時、日本語世代である涂南山が、一体どの様にして日本語の原文から英語の意味を探り、更に英語から中国語の漢字を探り当てて、中国語版の《イエス伝》を完成させたかの過程を想像するのは容易ではない。特にこれは平常の状態でなされたものではなく、刑務所の中の限りある時間と体力で、悪劣な環境と戦いつつ、ただ心だけは神と通わせながら仕上げた偉業なのであった。一冊の《イエス伝》と涂南山のストーリーが観衆に訴えるのは、訳稿の展示だけで説明できるものではなく、涂南山の内心世界に入り込み、また矢内原の教義の解釈と矢内原本人の内心世界に入り込んで始めて理解できるものであろう(矢内原伊作2011)。これまでの説明で、私達は記念館の一つ一つの展示物の背後には、解説の大きな難度があると共に、巨大なエネルギーが存在していることもうかがい取れる。解説の難しさは展示方法だけに局限されておらず、記念館としては先ず自己省察によって、展示物の潜在的力量を深く探求すべきであろう。

《イエス伝》で記念館の展示物が参観者に伝達するメッセージに就いて考えれば、一般的解説、より深入りした解説、及び有効な展示法とは如何なるものであろうか?そしてその限界は?下記の問題を取捨選択し更に総合することで、展示の総体的表現方式が決められる。即ち、日本語原書の著者は誰で、如何なる背景の下で日本の無教会主義の信仰が生れたのか?神の教えを説く本が何故涂南山に対し斯様に大きな影響を及ぼすに至ったのか?この本の内容の重点は何で、著者矢内原の影響を受けた台湾人にはどんな人間があり、彼等は台湾にどの様な貢献をしたのか?台湾の学術界ではどうして今でも《帝国主義下の台湾》を評価し継承するような著作[2]が相継ぐのか?…この様にずっと問い質していけば、記念館内の一冊の《イエス伝》をどのような範囲にまでディスプレーし、どのような方向付けで適切な展示方式を考え、総体的な展示の枠組みの中でこの展示物件のカテゴリーと展示構造の間の関係を位置付けるのか?一連の問題は、記念館が展示物件を通して知識と文化を形成する実践に関しての多くの議論を引き出すであろう。

3.2.2矢内原忠雄《帝国主義下の台湾》の影響

《帝国主義下の台湾》が学術的な知識社会学の変遷の中にあって後継者に及ぼした影響は、記念館がどういう風に《イエス伝》を展示物として運用することとは直接の関係はないように思われるが、《帝国主義下の台湾》で書かれてある植民地時代の台湾の製糖業政策及び産業システムが、植民地台湾の教育、社会、政治、民族運動等と密接に関係し、植民地の社会および政治解放運動の先頭に立った多数の台湾人指導者が、第二次世界大戦後勃発した228事件や白色テロで被害し殺害された。この様な脈絡が示している抵抗や解放の意義は、記念館によって理解され、そして記念館の物語及び文化的記憶の中心を形成するものであらねばならない。

記念館の展示物件及び提供者に対する調査研究は連鎖的関係への理解に繋がるのだが、文化的記憶の角度から考察すれば、矢内原の学術的著作《帝国主義下の台湾》のみが台湾に影響を及ぼしたのではなく、矢内原の宗教に関わる著作も台湾人の間で広く読まれた。展示物として1冊の本が記念館の中で関わりを持つイシューとして、展示物の本体、展示物の産出、展示物の時代背景、展示物を産出した人間の影響力、その影響力が時間の経過と共に再生され或いはその他物件を産出する等の問題が挙げられる。私達は矢内原の2冊の著作、《イエス伝》と《帝国主義下の台湾》が記念館が関心を持つ幾つかの課題を生み出したのを見ることができる。日本の政治学者若林正丈は日台間の文化と思想史の関連性に就いて次の様に指摘している。

  《帝国主義下の台湾》は台湾近代史を理解するための必読の入門書である。だがその重要性はそれだけに止まらない。《帝国主義下の台湾》の知的存在を手掛かりとして、錯綜した日台関係の文化史と思想史を探求できる筈だ。加えて『《帝国主義下の台湾》の知的考古学』を出発点として、日台関係史の新位相を浮かび上がらすことができるであろう。(何義麟20111116

台湾の記念館は「日台関係史の新位相」に貢献できる。許世楷著《日本統治下の台湾》原文版の序は、劈頭から矢内原の言葉を引用している:「被虐者の解放、沈淪せし者の浮上、自主独立者の平和的結合、これらは人類がいにしえより希求し、現在も希求し、将来もまた希求するものである。―矢内原忠雄《殖民及び植民地政策》、1926年―」。矢内原の人道的関心に立ったこのくだりの言葉は、柯志明著《米と砂糖の相剋》序言でも取上げられており、矢内原のアカデミック実践と信仰の人道的関心との影響の甚大なる事が分る。彼が説く被虐者の解放、向上等は、《帝国主義下の台湾》(1929年初版)が出版された時代、即ち台湾の階級運動、民族運動が興起した1920-30年代に於いて深い意義を有していただけでなく、台湾が自由、民主、人権、平和的解放を追求する現代に於いても重大な意義を持つものである。

3.2.3記念館と平和主義

緑島人権園区の一件の展示物が有している魅力を以上分析したのであるが、私達は展示物が備え持つ張力は、記念館の調査研究や再解釈によってのみ、参観者に有形の物件及び物件から発せられる無形の精神を感得させられ、参観者は外部から観察しながらも手書きの原稿の無形の力を読み取れる。この様な、展示と観覧間の美学的思考の下で、《イエス伝》の手書き原稿は、どの様な意義(物件及びその無形の意義)を生み出し、どの様に見られ(展示方式及び補助記憶の方法)、誰が何を見るのか(観衆の記憶理解の過程)、記念館が誰のために発言し、語りの観点(博物館の記憶のナラティブの権力的位置)等々(Hooper-Greenhill 2000: 14)が、物件の脈絡背景を更に深化し、物件が過去に非公開だった(果ては隠された)、または公開された後の記念化する過程に潜在している文化的記憶を呼び起こし、こうして多面的解釈と多重的意義とを産出する。

矢内原が涂南山を始め多くの人から「日本の良心」と呼ばれ、台湾に影響を残した観点から、今日の日本の平和祈念資料館、沖縄の平和祈念資料館、及び東アジアの平和関連の記念館を考察したり、或いは世界の多数の個別的記念館の脈絡の中から、「平和主義」の文化的含意を読み取ろうとする時、如何にして参観者に、「独立自主者の平和的結合」を自覚させられるのか?記念館は国際交流の中で、近隣諸国の近代史の脈絡の探求を開始し、当世の国際観光の記念館サイトに更なる歴史文化的意義を賦与できるのか?記念館は各国の公共文化機構として、うわべの観光だけに止まらず、記念館の国境を越えた「ダーク・ツーリズム」(Sharpley 2009)が産出する文化研究の新たな論議は、平和祈念館の独立自主的参観者が交錯する中で、彼我の記念館からどの様な歴史と文化的記憶とを学び取れるかは、更なる交流を通じて相互に学ぶことができるであろう。

4.まとめ:記念館と語りの結び付き

本稿で台湾植民地時代を経験した許昭栄と涂南山両氏の人物像と事蹟とを取上げ、記念館内でどの様に語られ、どの様に来館者に平和の意識を伝達するのかを議論したが、これは記念館に取っては、ポストコロニアル、アイデンティティ、人権、平和等それぞれのイシューで論述されるべき研究課題である。記念館は展示された人物、事件、文物等の関連する脈絡を結び付け物語る任務を持っていて、それにより参観者が多元的な解釈の観点から記念館の事件と物件とが齎す重大な文化的記憶の意義を理解する。それ故、記念館は次のような責任を負わされている。

「これ等のアイデンティティの構造を理解し、それらを接ぎ直し、歴史事件と人の政治の可能性に対する想像の方式を再定義する。」(CHING: 11)

今日、公共の記念的事件が国境を越えて錯綜する複雑さは既往を遥かに凌いでいる。中でも一番注目されるのは、米ニューヨークで発生した911事件及びその記念化から敷衍されたイシューである。記念館のグローバル化現象は、絶えず繰返され、絶えず出現する質問(世界各地の記念館間を流動している参観者に取っては特にそうである)は、何を記念するのか?どうして記念するのか?誰がどんな名義で記念するのか?記念の行為は既に失った過去を現代社会に連れ戻すことができるのか?或いは、現在と未来に何かを付け加えることができるのか?記念化の過程で設立された記念館は、どの様な社会と文化的意義を代表する現象なのか?

本稿は、平和教育の責任を背負う記念館は、「相互にぶっつかりあう声の間の出会いであり、一個の生活時間のトラウマが有効的に表現できる空間である。」(Sennett 2006: 16)という観点に同意する。21世紀の当世記念館は、経営思考に有益な参考を提供している。記念館は一つの相互にぶっつかり合い、有効的に表現する博物館空間であるのかどうか?記念館内外に於ける「相互にぶっつかりあい、有効に表現する」というのは、記念館の物語の観点と参観者の理解が、既定の認識とは異なる観点を齎し、また有効的に双方のコミュニケーションを進め、充分に各自の観点を表現できることを意味する。20世紀の歴史を経た今日の台湾の記念館、或いは将来予定されている国家人権博物館は、今後如何にしてかつては断絶した国家と人民を主体とする歴史物語を、本稿で提起した実例の文化的記憶のように接ぎ合せるのかという課題に直面するであろう。

記念館の国際交流の側面から日台相互の関係史を考える時、本稿で取上げた2つのケースは、国境を超越した文化の相互浸透による影響を浮上させている。各国のそれぞれの記念館が、「人権」、「平和」のコンセプトで国際交流を進めるに際して、記念館内の人物、事蹟、物件等の脈絡を更に深く掘り下げ、そしてこれ等の脈絡が齎した情報を相互理解の更なる研究の基礎にすべきであろう。

(日本語訳 蔡焜霖、英語訳 Lynn Miles)

参考文献 References

 

中国語専門書籍

戶曉輝訳、Patricia Fara and Karalyn Patterson著,2006。記憶。北京:華夏出版社。

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林明德訳,矢內原忠雄著,2004。日本帝國主義下之台灣。台北:財団法人 吳三連台灣史料基金会。

荊子馨,鄭力軒訳,2006。成為日本人:殖民地台灣与認同政治。台北:麥田出版。 【Leo T. S. CHING, Becoming “Japanese”: ColonialTaiwanand the Politics of Identity Formation. 】

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論文

曹欽榮,2011。紀念博物館、記憶研究与転型正義-從国際經驗到綠島人権文化園区。国立台北芸術大学博物館研究所修士論文,未出版。

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英語の専門図書

Confino, A. 2010. Memory and History of Mentalities. In: Erll, A. and Nünning, A. (Eds.), A Companion to Cultural Memory Studies.Berlin,New York: De Gruyter.

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Sharpley, R. and Stone, P. R. (Ed.), 2009. The Darker Side of Travel: The Theory and Practice of Dark Tourism.Bristol: Channel View Publication.

Whitehead, A. 2009. Memory. Abingdon: Routledge.

Young, Robert J. C. 2001. Postcolonialism: An Historical Introduction.Oxford: Blackwell.

 

インターネットサイト:

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The International Committee of Memorial Museums in Remembrance of the Victims of Public Crimes (ICMEMO) (2011) Homepage. Online. Available HTTP: <http://falstadsenteret.no/ic_memo/index.htm > (accessed 24 August 2011).


[1] 緑島は日本の植民地統治時代には火焼島と呼ばれていた。戦後1951年―1987年の間は台湾白色テロ下で主要な政治犯刑務所が設置された。現在の緑島人権園区は、前後2ヶ所の政治犯刑務所である、新生訓導処(1951-1965、思想改造労働キャンプ)と国防部緑島感訓監獄(1972-1987、高い塀に囲まれた牢獄式刑務所)を含む跡地に建設されてある。涂南山は戦前満州の建国大学に学び、戦後帰台して台湾大学を卒業、1951年逮捕され懲役10年の判決を受け、1952-1965の間新生訓導処に収容されていた。

[2] 《帝国主義下の台湾》を継承するような著作には、涂照彦著《日本帝国主義下的台湾》、劉進慶著《戦後台湾経済分析》があり、特に後者は前書きに「この本を今なお圧制に苦しむ台湾同胞に捧ぐ」との献辞が書かれてある。他には柯志明著《米糖相剋》、許世楷著《日本統治下の台湾》等がある。

新生訓導処(1951-1965) 展覧エリアの展示のご案内

新生訓導処は3個大隊12個中隊の編成でしたが、現在再建されたのは第3大隊(第9中隊~第12中隊)の営舎で、それを往時新生訓導処時代の政治犯の境遇を再現展示する場として使っております。
ミュージアムの本来の趣旨は、展示物、当事者の証言、及び公的文献等に頼って歴史を再現しようとするもので、長期に亘る努力が必要です。2008年に完成した新生訓導処第3大隊営舎の再建及び新生訓導処を主体とした展示は、2001年から開始された緑島人権記念園区プロジェクト及び史的文献調査の具体的成果の一部であります。

教学エリア_______________
教室コーナー
新生訓導処教室で洗脳教育を実施している情景を再現し、参観者がメッセージを残したり、国内外の博物館カードを記念に持ち帰ったりでき、関連情報の検索ができるコーナー。往時政府高官が視察に来た際の、集合教育の実景、教材、グループ・ディスカッション等の宣伝写真等を展示。


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